森秀一さんと私、その不思議なつながり
やさしくなろうネットワーク主宰 島村 一夫
(シンガー・ソングライター:高知市在住)
●「はうす一味」のコンサートで森さんを知った
「森さんのホームページに何か言葉を寄せて」と頼まれて、軽く引き受けたものの、ちょっと困ってしまった。さて、何から書けばいいのか…。
実は、彼の歌は、その昔…といっても、もう30年も前、彼が歌う「♪確か、海だった〜」のワン・フレーズしか憶えていない。けれど、彼独特の野太くて勢いのある声と、当時の「おにやんま」や「妖(あや)」の分厚いサウンドとのマッチが素晴らしく、耳にも印象にも残ってはいるが、彼のその他の音楽や、彼という人間を深く知っている訳ではないのだ。
しかし、「そう言えば…」と徐々に振り返ってみると、私自身の音楽活動の歩みと、森さんとのつながりは不思議なほどにリンクしていた。
一度はやめていた私の音楽活動を復活させたのは彼だった。いや、もっと正確に言うと、当時の「はうす一味」と彼だった。その「一味」は、今も活躍を続けている高知のバンド「陣羽織」(♪ポカポカ陽気の公園通りを〜…と歌っているグループ)を中心としたコンサートグループで、年に数回、大きなコンサートが開かれていた。
高新ホール(現在のRKCホール)をほぼ満員にして行われたコンサートに、当時、私のギター教室もどきのサークルの女性に誘われて出かけた。(元来、私は女性の誘いに弱い…。)コンサートには、地元で頑張っているアマチュアバンドが結集していた。デュオから大人数のバンドまで、カラフルな出演で大いに盛り上がった。折からのバンド・ブームの時代だった。中でも女性三人組の「Bee」のハーモニーが気に入った。(彼女たちとはその後の縁で今もお付き合いがある。)特に「口紅」という曲のほのかな色っぽさは特筆できる。
それはともかく、そのときに「幡多から来ました」とゲストで現れたのが、森さんがヴォーカルを努める「おにやんま」だった。ラジオでは何度か耳にしていたが、本物のナマには圧倒された。多分当時は県下の一番人気のバンドだったろうと思う。
●「ぐうぴいぱあ」結成のきっかけとなった森さんの歌声
私のその頃は、青年センターの中につくった「高知青年FOLK衆団」の「OB」になったばかり…この種の音楽活動は、当時はまだ、「若いうちに」やるもので、30近い妻帯者ともなれば「そろそろ大人」になってやめるもの、というのが相場だった。(最近では60歳を超えた現役も珍しくないけれど)。その年の夏、我々の憧れだった、出来たばかり県民文化ホールを借り切って、同「衆団」加盟のバンドやソロがすべて出演するというコンサートを開いた。当時の私のバンド「ふるい橋」(ギター+ギター+ベースの三人組)がそのトリをとって出演し、私はそのコンサートを引退の花道にして、「もう、や〜めた」と思っていた。森さんたちと出会ったのは、まさに、その頃だったのだ。
森さんたちをはじめ、彼らのパワーと輝きは、ジェラシーを感じるほどに羨ましかったし、特にエレキギターとドラムの入ったバンドの力強さと豊かさに大きな憧れを抱いた。「ああ、やりてー」、「もっと大きなバンドでやりたい」、そして「大きなステージでやりたい」…要は「やりたい」のオン・パレード。その日から、バンドづくりに向けた動きが始まった。
そうして生まれたのが、6人編成の社会人バンド「ぐうぴいぱあ」(…知ってる人は知っている)。以来、7年半の活動を続け、アルバム2枚(当時はCDなんてなく、でっかいLPレコードだったんだよ)、それもライブ録音版とスタジオ録音版の2種類。そして、坂本龍馬生誕150年記念音楽祭でグランプリ曲となった「RYOMAサンバ」をシングル(当時はドーナツ版って言ったのさ)で出版。
ともかく、そのバンド活動の原点・源流に森さんがいたのだ。改めて感謝したい。もちろん当時は彼と話したこともなく、単なる一人のお客と、地元スターという間柄だった。
その「ぐうぴいはあ」の全盛期(そんなものがあったのかどうかは疑問だけれど)のときに、土佐清水の市民文化センターでのコンサートに招かれた。オープニングは我が「ぐうぴいぱあ」、トリが「妖」というコンサート。妖のメンバーの音楽性の高さとその力に圧倒された。なにさま、我々は企画先行・人気とり先行型で、音楽性はさておいて、良く言えばエンターテイメントを追求するバンドだった。
一人のお客と地元スターという関係は、その出会いから4年ほどかかって、同じ舞台での「共演者」と呼ばれるようにはなったのだった。
とはいえ、ぐうぴいぱあは、動員力だけは県下一だった(と思う)。これはちょっと自慢してもいいと思うけど、我がバンドだけでのコンサートを、県民文化ホールのグリーンホール(500人収容)で10回、オレンジホール(1500人収容)で4回のコンサートを開催し(エッヘン!)たのち、県内4カ所でラストコンサートを開催して、華々しく解散した。(面白かった、けれど、ものすごく疲れた。)
●人権コンサートの源流点にも森さんがいた
バンドを解散して3年後、初の市民参加の「ミュージカルRYOMA」を企画して、自ら100人の劇団の座長兼楽曲プロデューサーを努めて、これを仕上げて疲れ果て、「もう、せんぞー」という頃、またまた、縁あって、今の「やさしくなろうコンサート」が始まり、「優しくする人から、優しい人へ」との、人権の視点から歌い語るというソロ活動も早くも17年がたった。すでに西日本300カ所に訪れて、歌とお話を聞いてもらっている。
実はその活動の原点にも、森さんがいたのだ。森さんは今も高知県黒潮町(旧・佐賀町)に住まわれていて、居酒屋「鬼守家(きすけ)」のオーナーでもあるのだが、今から17年前、その佐賀町内の保育園でのコンサート(当時はまだ「講演会」と呼んでいて、私はその講師)の音響を努めてくれたのが彼だった。そのコンサートの開催に間に合うようにと、こしらえた歌「オガリ〜母から我が子へのメッセージ〜」を初めて歌い、その歌の元になった作文集を書いた地元のお母ちゃんたちと共に、体が震えるほどの感動を分かち合った…そのことが、これまでずっと歌い続けてきた理由であり、原点となった。これもまた、大きな声でありがとうが言いたい。
月日は流れて、今から5年前、私は「高知市立長浜市民会館」に着任した。「福祉と人権のまちづくり」がテーマの館(やかた)である。その翌年の7月、高知市主催の「部落差別をなくする運動強調旬間」の記念事業として、我が館で人権コンサートを開くことになり、私は迷わず、森さんに声をかけた。ずっと前から互いに知っているけど、あまり話しもしていない二人だった。時の流れは、いつの間にか、二人を「歌による啓発を進めている同志」として、近づけてくれていた。
彼のCDや写真やプロフィールなどを送ってもらい、チラシにして、全市に配布した。私は馴染みの音響さん、照明さんに頼んで、新しいセットもこしらえて、精一杯の準備をした。
その当日、彼がやって来た。いつもの気取らない格好で、にこやかな笑顔でやって来た。リハーサルが始まった。昔と違ってギター一本のコンサートだけれど、その力強さは変わりなく、声は年を重ねてさらに表現豊かにホールに鳴り響いた。私は嬉しくてたまらなかなかった。出会いの日には、お客とスター、それが今は同志でもあり、招く側ともなり、彼をみんなに紹介できるということが嬉しかったのだ。
高知市の南部にある館だけれど、当日は200人もの方が集まってくれた。彼は昔と違って、恋の歌ではなく、ふるさとの歌、そして、そこに生きる自分自身を語り、歌った。佐賀の町での「魂拓人(こんたくと)」の活動に掛けた願いも語ってくれた。
そして、アンコールに応えて歌ったのが、あの「♪確か、海だった〜」。実に30年ぶりの再会だった。綺麗な照明に飾られた舞台が、ひときわ輝いた気がした。
●心に届く歌で、さらにつながりを広げて
互いに年を重ね、経験を積み、家族をつくり、視野が広がった。町のことや人のこと、そして、自分のことを素直に振り返り、語ることもできる歳になった。しかも、それらを歌にして、相手の心に届けるという、誰にでもはできない力を与えられている。
ぜひ、これからもいい歌を作り続けてほしいと思う。そして、一回りもふた回りも豊かになった歌声を、一人でも多くの人に届けてほしい。そして、私とも不思議な縁でつながっている「森秀一」さん。そのつながりがさらに沢山の人々に広がってゆくようにと、心から願っています。
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